東京地方裁判所 昭和39年(合わ)23号 判決 1965年3月30日
被告人 金子省三
大五・八・二五生 工員
主文
一、被告人を懲役四年に処する。
二、未決勾留日数中四〇〇日を右刑に算入する。
三、本件公訴事実中、昭和三四年二月二三日の東京都世田谷区上馬町一丁目五八九番地吉良房江方に対する住居侵入、同日同所における窃盗未遂、同日同人方居宅に対する放火未遂の事実(昭和三八年一二月四日付起訴状公訴事実第一の(一)、(二)、(三))については被告人は無罪。
理由
(事実)
被告人は、新潟県で生まれ、小学校卒業後しばらく農家に奉公した後上京したが、間もなく掏摸の仲間に入つて生活するようになり、一七才の時を初めとして主に窃盗の罪により前後一一回の服役を重ね、その間、軍隊に入つたり、工員、人夫等をして働いていたが、昭和三七年一月頃から梱包業者に雇われて働き、更に同年六月から品川にある高周波熱練株式会社に検査工として勤めていたものである。ところで、被告人は、
第一、東京都目黒区緑ヶ丘三、二〇六番地所在星野谷和一所有にかかる木造瓦葺平家建居宅一棟二五平方米が空屋になつたのを知り、昭和三八年一〇月六日頃、同人に対し右家屋の賃借方を申入れたが、断られたばかりかその断り方が素気ないものであつたため、これを恨みに思つていたところ、同月一六日早朝散歩に出かけ、偶々同所附近を通りかかつた際、右家屋を認めるや同家屋に放火しこれを焼燬してその恨みをはらそうと考え、一旦自宅に戻り、空缶二個(昭和三九年押第一二三号の一、二)に灯油を入れて持ち出し同日午前五時三〇分頃、同家屋六畳間とこれに接する縁側及び西側下見板に灯油を撒布した上、右下見板にマツチで点火して放火し、もつて人の現在しない同家屋一棟の右下見板約一平方米、軒桁、垂木、野地板の一部約〇・五平方米を焼燬し、
第二、数年前より妻の金子貞子と共に創価学会に入信し、貞子は同学会の組長並びにブロツク担の各役員を勤めていたところ、被告人が同じ創価学会員の妻と情交関係があるとの噂が二、三たつたことから、貞子が相手方の家に怒鳴り込んでいつたこと等が原因で、役員として相応しくないとして昭和三七年暮頃組長を、次いで昭和三八年四月頃ブロツク担をそれぞれ解任されたことがあり、また同年九月頃、同じ創価学会員の後藤善四郎がそれまで受けていた生活扶助を取消されたことがあり、その原因が民生委員のもとに同人は仕事をもつているから扶助を受ける資格がない旨の匿名の投書があつたことに因るものであつたため、後藤の居住する同都同区緑ヶ丘三、一九八番地所在のアパート緑交荘の中でも右投書の主について噂が出た中で、被告人又は貞子の名も挙げられたことがあり、これらのことから被告人は、自分や妻が創価学会員からのけものにされていると考え、快よく思つていなかつたところ、右緑交荘には創価学会員が五世帯も住んでいたところから、同アパート(一階約一四〇平方米、二階約一五二平方米)に放火しこれを焼燬してうつ憤をはらそうと考え、同年一〇月二二日午前二時二五分過ぎ頃、右アパート西北隅の下見板に前同様灯油を撒布した上、これにマツチで点火して放火し、もつて青木光重方ほか一二世帯四二名が現に居住する同アパートの前記下見板約三平方米及び二階便所下の根太、柱等の一部を焼燬し、
第三、同年五月一二日午後一一時頃、同都同区自由ヶ丘六二番地石井八重子方八畳の間に不法に侵入し
たものである。
(証拠)(略)
(判示認定の事実並びに吉良房江方に対する放火未遂等の事実に関する証拠判断)
一、被告人に対する本件公訴事実は、
(一) 昭和三四年二月二三日の吉良房江方に対する住居侵入、窃盗未遂、放火未遂、
(二) 昭和三八年一〇月一六日の星野谷和一所有家屋に対する放火
(三) 同年同月二二日の緑交荘に対する放火
(四) 同年五月一二日の石井八重子方に対する住居侵入の各事実である。
これに対し、被告人は、当公判廷において右各事実を全部否認(但し、(一)の事実については第一回公判廷で放火の犯意を否認したほかはこれを認めたが、第二回公判廷以後全部否認)し、(一)の事実については、「当日吉良方から出火した時刻の前頃同人方の前を通つたことはあるが、同人方に入つたことは全くない」旨主張し、(二)の事実については、「当日午前五時頃起きて犬を連れて散歩に出かけ、出火直前頃に本件家屋の前を通つたことはあるが、当時右家屋から出火したことは全く気付かず、出火時刻頃には自宅に帰つていた」旨主張し、(三)の事実については、当初「当日午前二時頃外便所に行き、帰つてひと眠りし、夜が明けかかつた頃自動車の警笛の音で目が覚め、間もなく緑交荘から出火したことを知つた」旨主張していたが、後に、「火災発生のずつと前に一度外便所に行つた。緑交荘の火事を知つて外に飛び出し、殆んど消えかかつた頃家に帰つてきてもう一度便所に行き、そのまま寝ないで朝まで起きていた」旨主張し、(四)の事実については、被害者本人の推定的承諾のもとに屋内に入つたとの趣旨に解される主張をしている。
二、被告人の当公判廷における供述、検察官に対する各供述調書を総合すると、被告人は捜査官の取調に対し当初否認していたが、最終的には結局事実を認め、各公訴事実に略々照応する供述をしていることが認められる。被告人が何故捜査官の取調に対し自白したのに、法廷で否認したかについて、被告人及び弁護人は、「被告人は戦時中左腰部及び左膝下部に被弾したため、木製の椅子等に長時間座ると耐え難い痛みを覚えるのであるが、被告人の取調にあたつた長島警部補は勾留当初から被告人を長時間に亘つて取調べ、しかも被告人は木製の丸椅子に座らされたため前記故障の部位に激しい痛みを覚えた。そこで被告人が姿勢を崩すと同警部補はこれをたしなめるので、爾来終始姿勢を崩すことができなかつたため、被告人の取調中の苦痛はひどいものであつた。その上、被告人が長島警部補の再三の質問に対し黙つていると、同警部補は『金子、お前否認したら出られんぞ、否認しなかつたらこんなの軽いんだ、家族のことは心配いらない、警察でちやんと心配して目黒の民生委員にも話がしてある、このとおりだ。』といつて名刺を示したこともあつた。右のような取調を受けたため、被告人は止むなく同警部補に迎合して事実に反した供述をしたのである。被告人が自白するに至つた過程が右のとおり無理なものであつたため、長島警部補は、昭和三八年一二月二三日警視庁から東京拘置所に移監の前日、被告人のために送別会を開いてくれたのみならず、月々一万円を送つてやると約束した。そこで被告人は移監後長島警部補に送金方を頼んだところ、第一回公判後の昭和三九年一月一六日に送金してくれたが、その額は約束に反した千円であつたため、第二回公判以後事実を否認し、真実を述べたのである。また検察官に対する供述も、長島警部補の右の如き無理な取調の影響の継続中になされた取調に基くものである。」と主張している。
そこで、被告人の捜査官に対する供述の任意性、信用性が検討されなければならないが、これに対する当裁判所の任意性に関しての判断は、さきに昭和三九年一二月七日付で決定したとおりである。そして同決定は、被告人の検察官に対する供述は任意性があるものと認め、長島警部補に対する供述は任意になされたものでない疑いがあると判断している。
三、ところで、本件において、被告人の供述の信用性の判断にあたり、特に留意しなければならないことは、鑑定人小木貞孝がその鑑定書において、「被告人は、現在創価学会に入会しているが、それまで妻に勧められて日本天皇道、成長の家、月日の神等の新興宗教を転々と信仰しており、日本天皇道に入つている時は霊媒としてしばしば憑依状態に入つている。これは意志の薄弱なことと共に被暗示性の強いことを示している。そして被告人には、現実にあるが以上に可哀想な同情すべき人間として話す虚言癖の傾向があり、しかもその虚言がある類似性をもつている点を考えると、単にその場限りの虚言ではなく、自から作り出した虚言による空想があたかも真実であるかの如く意識されているのではないかと推察される。しかし、空想の内容が豊かではなく、精神医学でいういわゆる空想的虚言症とは言い得ないが、その傾向は強いといえる。加うるに苦痛を過度にしかも演戯的に訴える。即ち、自己顕示性がある。次に、些細なことからの情動興奮が激しく、理性による抑制が困難で、短絡反応を起こし易い小児型の未熟な性格傾向がある。」と指摘していることで、このことは当裁判所も本件審理の全般を通じ被告人を観察したところでは全く同意見である。従つて、被告人の公判廷における供述及び検察官に対する供述は、それが被告人の利益、不利益のいずれの場合であつても、その信用性の判断は十分慎重でなければならないと共に、被告人の罪責の有無の決定にあたつては、被告人の供述に囚われることなく、専ら他の証拠により認められる客観的事実を基礎とし、これに被告人の供述が合理的に首肯しうる内容をもつものであるかどうかを総合的に判断して決すべきものと考える。その上、長島警部補の被告人に対する取調の仕方は、前記決定で認めているとおり、必ずしも相当でないのみならず、昭和三八年一二月二三日同警部補は被告人に対し金銭供与の約束をしているから、同日以降自白取消までの間に採取された被告人の供述の信用性については、特に客観的証拠との総合判断が必要である。
四、以上の観点に立つて、以下順次各公訴事実について検討する。
(一) 吉良房江方に対する放火未遂等の事実について
(1) 関係証拠を総合すると、昭和三四年二月二三日午後一時三〇分頃、東京都世田谷区上馬町一丁目五八九番地所在吉良房江方に家人不在中何人かが同家六畳間の出窓の硝子戸を施錠のまま取り外して屋内に侵入し、隣接の四畳半の間にあつたベビー箪笥、洋服箪笥、押入中の和箪笥等を物色し、台所のガス台の上に右和箪笥、ベビー箪笥の抽出各二個を置いて、ガスの火によつて右抽出の一部を焼燬したことが認められ、右状況から判断すると、屋内に侵入した窃盗犯人が放火したことが明らかである。
(2)(イ) ところで、関係証拠によると、被告人が当時世田谷区松原町に住んでいたこと、当日現場からほど遠くない同区野沢一丁目四五番地の松田小夜子方を尋ねた時と同女方から帰つてきた時にそれぞれ吉良方の前を通つたこと、二回目に通つたのが吉良方から出火した時刻の略々直前頃であつたことも証拠上明らかである。
当日何故被告人が野沢まで来たのかについて、被告人は、「当時勤め先で指に怪我をしてその治療のため上北沢の医者に通つていたが、当日は偶々かつて自分が野沢に住んでいた時の家を懐しく思い、医者に行つた帰りに寄つてみたいと思つたことと、当時自分は創価学会に入会していた関係から同女を折伏しようと思つたためである。」と供述している(検察官に対する昭和三八年一二月二日付供述調書)。
被告人が吉良方の前の道を二回に亘つて通つたことは、近所の若尾ゆう、佐竹タメヨ等が目撃しているところであるが、被告人が吉良方に入つたかどうか、ひいては屋内を物色し放火したかどうかについては、一件証拠を精査しても被告人の検察官に対する供述調書以外にこれを認めるに足る証拠はないのである。そこで被告人の検察官に対する供述をみるに、その要旨は、「松田方を尋ねての帰り、再び吉良方附近を通りかかつたところ外人の女の声が聞こえてきた。近くに外人の家があり、きれいな奥さんがいることは以前から知つていた。外人の家は吉良方の隣りになつていて、同人方の門が開いていたので外人の奥さんをみてみたいと思い、開いている門から吉良方の庭に入つていつて、境の塀を通して隣りの外人の家をのぞいてみた。すると右側が建物で縁側があり、そこに女の人がシヨートパンツをはいて座つていて、左手にブランコがあつて女の子が座つており、女の人がその子供に何か話しかけ、女の子がキヤツキヤツと笑つていた。しばらくしやがんでみているうちに、女の人が立ち上つて奥に入つていつたので自分も立ち上つたが、このとき急に空腹を感じた。そして吉良方の様子をみると人気がないので、同人方に入つて何か食べようと思い、外人方寄りのガラス戸を開けて中に入つた。台所にいくと流しの右側にコンロが二つあつたので、右側のコンロに薬缶を乗せガスの火をつけた。それから屋内を物色しているうちに湯のわく音がしたので、食事をしながら箪笥の抽出の中を調べようと思つて、和箪笥の抽出を抜いて台所に持つていつた。ガスの火は消したと思う。台所で食物をさがしたが、御飯もなく好きな物もないので、入つたところから出て帰つてきた。台所を出るとき抽出は流しとコンロの辺に乗せた。」というのである。
右供述のうち、吉良方への侵入方法、屋内の物色状況出火に至る経過等は、細部の点を除き大綱的には客観的事実に略々符合している。しかし、反面これらのことは被告人を取調べる以前に既に捜査官側で知りうることであり、一件証拠によると、同人らは本件においては既に知つていたものと推測しうるところであつて、もし被告人を取調べるにあたつて、客観的事実に符合しない被告人の供述があれば、追求を重ねていくうちに、取調の方法如何によつては犯行状況に関する知識を被告人がおのずから得て、被告人の前記の如き性格から、自白の動機如何を問わず客観的事実に符合するようその供述が変つてくることも十分考えられるところである。
しかし、外人方をのぞいたことや、その時の外人方の状況については被告人以外知り得ぬことであつて、もしこの点に関する供述が真実と認められれば、被告人の供述は全体的に真実性が担保され、被告人が吉良方に入つたことは事実と認められ、被告人の検察官に対する供述も十分信用できることになり、ひいては本件犯行が被告人によつてなされたものであるということが言いうるであろう。
ところで、当裁判所の検証調書、司法警察員作成の昭和三九年一一月一四日付捜査報告書、ハロルド・エル・チヤイルト・ジユニア作成の書信、登記簿謄本を総合すると、吉良方は門を入るとすぐ庭があり、右側に住居が建ち、左側は庭に接して隣家の白須方の住居が位置し、奥隣りの右側に竹垣を境に小野寺方の庭が、左側に金網を境に浜崎方が接していること、右浜崎方は事件当時イタリヤ人トルトラノ・ルシヤ所有の建物で、アメリカ人ウイリアム・ジー・トウイリーがその家族(妻及び当時九才と二才の女児のほかメード一名)と共に昭和三二年一二月から昭和三五年三月まで居住していたもので、吉良方と境をなす右金網から〇・七二米離れて住居が建てられていること、右浜崎方敷地内に右住居と別にアパートが建てられているが、事件当時はアパートはなく庭になつていたこと、以上の建物の位置、垣根、金網等の状況はアパートが新しく建てられたほかは事件当時と全く変らないことがそれぞれ認められる。そして右検証調書によると、浜崎方の住居は小野寺側を背にして建てられ、吉良方の庭に接した部分は台所であるが、同住居の小野寺側及び吉良側の部分は小野寺側に一個、吉良側に二個いずれも地上一・七米ないし一・八米の個所に窓があるほか、すべて下見板で囲つてあり、吉良方の庭から浜崎方をみたとき被告人が検察官に対して行つた供述と異なり、その家屋の内部、従つて縁側の状況等をみることは全く不可能であり、また当時庭であつたところもその大半は右住居に遮ぎられて望見することは殆んどできない状態にあることが明らかである。そして同位置で隣家の小野寺方をみると、この方は浜崎方と異なり、その縁側、庭はみることができる。しかし、庭は植込みの状況からブランコを設置する余地はなく、立会人の説明によると事件当時はもち論それ以後もブランコを設置した事実のないことが認められる。
被告人のいう外人の家とは右浜崎方(当時トウイリー方)を指すものと解されるが、そうだとすると、被告人の前記供述中、外人の家をのぞき見したとして同家の縁側その他の家屋の構造並びに同所での外人の行動等に関して述べている部分は事実に反した供述といわなければならない。もち論吉良方の隣りに外人の家があること及びその家族構成が被告人の右供述に符合していることは間違いないけれども、一件証拠によれば、吉良方の隣りに右トウイリー一家が住んでいた当時被告人も近くの野沢一丁目四五番地に住んでいたことが認められるから、その頃被告人がトウイリー方やその家族の様子を見聞する機会のあつたことは容易に推察されるところである。従つて、被告人が吉良方の隣りに外人の家があることや、その家族の様子を知つていたからといつて特に異とするに当らないのであつて、この一事から被告人が右供述で同人が右問題の時期に体験した事実を物語つているものと推断することは到底できない。
そうすると、被告人の検察官に対する供述のうち、吉良方の庭から外人の家をのぞいてみたこと及びその時の外人方の状況に関する供述は全くこれを信用することができず、その余の点に関する供述も直ちにこれを信用できない状況にあることはさきに述べたとおりである。
(ロ) 守岡喬子の司法警察員に対する供述調書によると、同女の家は吉良方と道路を狭んで向い側にあるが、当日午後一時三〇分頃、同女が台所で仕事をしていた時、吉良方の門の止金が外される音を聞き、窓越しに吉良方をみると門に向つて一人の男が立つているのをみかけたが、吉良方に来客があつたものと思いそのまま仕事を続け、約一〇分後再び同一人が吉良方の門の前から歩きかけていく姿を目撃したこと、その一、二分後に吉良方から出火した事実を認めることができる。前後の状況から判断して同女の目撃した人物が犯人ではないかとの疑いが濃厚であるが、その人物の服装は焦茶色の背広上衣、薄青緑色のズボンで、手に茶色の革手袋をはめていたというのである。これに対し一件証拠によると当時の被告人の服装は茶色の革ジヤンバー、紺色のズボンであつたと認められるから、服装の点からみれば明らかに被告人と異なるといわなければならない。
(ハ) 本件に関しては、事件発生後間もなく被告人も容疑者の一人として捜査の対象とされていたが、結局犯人と断定できないまま四年有余の時日が経過したところ、判示第一、二の放火事件の発生に伴い被告人がその犯人として取調べられ、これに並行して再び本件についても被告人が取調を受けるようになつたことが一件証拠上認められる。しかし、捜査終結即ち起訴の段階において右初期捜査当時の証拠に新たに加えられたものは、当時被告人が勤め先を欠勤していたこと及び指の治療のため医者に通つていた事実が明らかにされたほかは、被告人の捜査官に対する供述を除いて他になく、そして被告人の右供述以外他に本件犯行が被告人の所為であると認めるに足る証拠のないことは前述のとおりである。
検察官は、ポリグラフ検査の結果、本件に関し被告人が有罪意識を有していると認められたことを以て被告人が犯人である一つの証拠とするが、右ポリグラフ検査結果は未だ一般的に必ずしもその正確性につき科学的承認が得られていない段階にあるといわざるを得ないから、これのみを以て直ちに有罪認定の証拠とし、或いは被告人の供述の信用性に関する事実の証拠とすることはできないといわなければならない。
(ニ) 更に本件において看過できない証拠は、右火災の直後所轄司法警察員が現場の実況見分をした際採取した指紋であろう。そこで司法警察員藤本準吉作成の実況見分調書並びに警視監本多丕道が右現場より採取した指紋として当裁判所に送付して来た指紋その他一件書類及び警視荒川正義作成の「現場指紋対照結果について」と題する書面を検討すると、司法警察員は右実況見分の際和箪笥、テレビ、鏡台に付着した指紋二〇個を採取し、警視庁鑑識課で対照可能のものが一一個、対照不能のものが九個で対照可能のもののうち八個は家族その他関係者の指紋と符合しているが、残りの三個は該当者が不明であること及び右該当者不明の指紋三個のうち二個は和箪笥の抽出、一個は鏡台に付着していたものであるが、この三個の指紋はいずれも被告人の指紋と符合しないことが認められる。しかし、本件では、この三個の指紋が犯人の指紋であると断定しうる証拠はないが、さればといつてそうでないと断定しうる証拠もないのであつて、これらの指紋には犯人の指紋である可能性も十分あるわけである。
(3) 以上のとおりであるとすれば、当日の被告人の行動等からみると、被告人は出火に近接した時期にその附近におり、同人に対し全く疑いがないとは断定できないが、被告人の検察官に対する供述以外本件公訴事実を認めるに足る証拠はなく、そして同供述が極めて信用性に乏しいと認められ、しかも現場に存在した指紋対照の結果が前記のとおりであるとすれば、被告人を有罪とするには証拠は不十分であるといわねばならない。
(二) 星野谷和一所有の家屋に対する放火について、
(1) 関係証拠を総合すると、昭和三八年一〇月一六日午前五時三〇分頃、東京都目黒区緑ヶ丘三、二〇六番地所在の星野谷和一所有にかかる家屋の西側下見板地上約一・九米の箇所から出火したこと、出火の原因は右箇所に灯油がかけられ、これにマツチで点火されたためと認められること、当時右家屋は空屋であつたこと等が認められ、右状況から判断すると明らかに放火と断定できる。
(2)(イ) 司法警察員作成の実況見分調書(昭和三八年一〇月二〇日付)、警視庁科学検査所長作成の「鑑定結果回答について」と題する書面(同年一一月九日付、科化第五七七号)、押収にかかる空缶二個を総合すると、出火の当日午前九時三〇分から午前一一時三〇分の間、右被災家屋及びその附近一帯で証拠保全のため行なわれた実況見分の際、被災家屋とは道一つ隔てた筋向いで発火地点から一〇・七五米及び一四・四米離れた畑の中から、ナメコ茸缶詰の空缶及び白桃缶詰の空缶各一個が発見され、鑑定の結果、前者からは石油様の臭気を有する約〇・一ミリリツトルの薄黄色透明液体が検出され、その成分は灯油と認められ、後者からはその内部が殆んど乾燥した状態であつたため極めて僅かに石油様の臭気が感じられたに過ぎないが、その成分は油類でその付着が推定されたこと、ナメコ缶に付着していた灯油は本件家屋の下見板等にかけられた灯油と同一種類のものと思料されることがそれぞれ認められる。右空缶二個が発見、採取された時期場所が右のとおりであるとすれば、その時期は出火に極めて近接した時間であり、その場所は出火現場に略々同視しうる地点であつて、これらの空缶が採取された時期、場所は「犯行直後」に「犯行現場」で行なわれたものと殆んど同格に評価しても差支えないものであり、しかもこの空缶に付着していた油類と出火現場の下見板等にかけられていた油類とが前記のとおり同一種類のものと認められるとすれば、右空缶二個はまさに右放火のため使用された油類を入れた容器であつて、右放火行為に使用された物件と認めるのが相当である。
(ロ) 横山昌典、中川和夫、金子昭久、金子貞子(昭和三八年一二月三日付)の司法警察員に対する各供述調書及び針原孝之作成の答申書並びに警視庁科学検査所長作成の「鑑定結果回答について」と題する書面(昭和三九年九月一六日付)及び押収にかかる缶切り一個により認めうる「前記ナメコ缶の蓋は被告人方で右出火当時使用中の缶切りで切断したもの」と認めうる事実を総合すると、右ナメコ缶は、昭和三八年一〇月四日頃被告人の長男が修学旅行で裏盤梯にいつた際土産に買つてきたもので、その頃被告人方で食べたものであること、白桃缶についてはナメコ缶のように被告人方で食べた缶であるとは一〇〇パーセントいいきれないが同人方でもその当時同種の缶詰を食べていること、被告人方では空缶はすぐ捨てずに保管しておいてまとめて屑屋に売ることにしていること、長武雄、金子貞子(昭和三八年一一月二日付)の司法警察員に対する各供述調書によると、被告人方で昭和三八年一〇月一三日石油ストーブと灯油一八リツトルを買い求め、事件当時これらを使用していたこと、金子貞子の右供述調書によると、当日朝被告人が犬を連れて散歩に出かけたが、帰るとすぐ消防自動車のサイレンが聞こえ、本件火災を知つたことがそれぞれ認められる。而して一件証拠を精査しても、被告人の家族或いは他の第三者によつて右空缶が被告人方から持出されたと認むべき証拠はない。
(ハ) 星野谷和一の司法警察員に対する供述調書によると、被告人は昭和三八年一〇月初旬頃、本件家屋に住んでいた知人の松本謙太郎を尋ねたところ、既に空屋になつていたので家主の星野谷和一に借家の申入れをしたが、同人より素気なく断わられ、同人に対し不快な気持をもつに至つたことが認められる。
(3) 右(2)の(イ)、(ロ)、(ハ)で認定した事実を総合すれば、他に合理的な疑いをさしはさむべき証拠のない本件においては、右犯行は被告人によつて行なわれたものと推認するのが相当であり、そうとすれば、被告人の検察官に対する供述には十分な裏付があり、その真実性はこれにより担保されているものと認めることができる。
被告人は、当公判廷において、「畑から採取された空缶は犬の訓練のため使つたもので、これによつて放火を行なつたことはない」と供述するが、一件証拠を精査しても、他に右空缶が灯油等の付着が当然想定される目的のため使用されたと認められる事実はこれを認めることができないから、被告人の右供述は信用できない。
(三) 緑交荘に対する放火について
(1) 関係証拠を総合すると、昭和三八年一〇月二二日午前二時二五分過ぎ頃、東京都目黒区緑ヶ丘三、一九八番地所在のアパート緑交荘の西北隅下見板地上約一・七米の箇所から出火したこと、出火の原因は右箇所に灯油がかけられ、これに点火されたためと認められること、右箇所は普段全く火の気のないところであること等が認められ、右状況から判断すると明らかに放火と断定できる。
(2)(イ) 被告人の妻金子貞子の当公判廷における供述及び検察官に対する供述調書によると、同女は当公判廷及び検察官の取調に対し「緑交荘の火災に気付いたときは主人は家にいたが、それから寝巻姿で外に飛び出して行き、間もなく家に戻つて寝床に入つたが、そのとき主人の顔が石油臭いのに気が付いた。」旨供述している。被告人の顔が石油臭かつたということは、一件証拠によれば被告人を除いては同女のみしか知らない事柄であつたと認められ、また被告人にとつて不利益とも考えられる事柄であるのに、検察官の取調に対しても、また当公判廷においても同女の終始変らぬ供述であること等を考慮すると、右供述は十分に信用するに足るものと考える。
ところで、被告人の顔が石油臭かつた原因については、同女は、「主人が外から戻つてきて寝床に入つたときその顔が石油臭かつたので訳を聞くと、『石油ストーブを押したからだ。』といつていた。主人には手を顔にやる癖があり、ストーブは二、三日前から注入口の栓が緩んでいたらしく下の置台とタンクのところに石油がこぼれていたし、はじめあつた位置と主人が外に出て行つてからの位置とが違つていたから、主人が石油ストーブを押したとき手に石油がつき、その手で顔をこすつたため顔が石油臭かつたのだと思つた。」旨供述している。司法警察員作成の実況見分調書(昭和三八年十二月五日付)添付の写真13によると、被告人方の石油ストーブは対流式のもので、煙突の上部に吊手がついていることが認められるから、用法上からいえば、ストーブを移動させるのに、置台或いはタンクの附近に手を当てて押すことは極めて例外のことであり、吊手をもつて動かすことこそ普通であろう。しかし、いずれにしても被告人の顔が石油臭かつた原因についての同女の供述内容は、同女の目撃した事実ではなく、被告人の言を内容とする伝聞と同女の推測に基くものであつて、しかもその内容とするところは前記のとおり用法上稀有のことであるから、他にこれを裏付ける証拠のない本件においては、直ちに同女の供述するような原因で被告人の顔に石油が付着したと認めることはできない。そうすると、被告人の顔に石油が付着した原因、時期、場所等については他にこれを確認しうる証拠のない以上その詳細は不明というほかはないが、被告人が家に戻つてきて寝床に入つたとき、すぐ同女が気が付く程度に臭気が残つていたこと等から考えると、被告人が外から家に戻つてくる以前、これに近接した時期に被告人の体に石油が付着したことは明らかであるといわねばならない。
(ロ) 緑交荘の近所に住む下田信子、高瀬千賀子の司法警察員に対する各供述調書によると、昭和三八年一二月五日司法警察員の取調に対し、下田信子は、「当日午前二時過ぎ頃、寝ようとすると自宅の筋向いの方向で何度も自動車が警音器を鳴らしているのを聞いた。あまり何度も鳴らすので外を見てみたが何も見えなかつた。それで又寝床に入つて寝ようとすると、今度は緑ヶ丘駅の方向からサイレンの音が聞こえて近所に止まつたので、外に出てみると緑交荘が火事だとわかつた。」旨供述し、高瀬千賀子は、「当日夜寝床でうとうとしていると、急に自宅前の道路の方から自動車が警音器を鳴らすのが聞こえそのうち二、三人の足音が聞こえたので外を見ると、筋向いにある火災報知器のところで誰かが何か『もしもし』と話しているようなので火事だと思い、報知器の使い方を教えてやろうと思つて外に出たところ、先程警音器を鳴らしていた自動車かどうかわからないが、横の路地にタクシーが止まつていた。しかし誰も乗つていなかつたので、運転手とお客が何かもめてどこかに行つたのだろうと思い乍ら報知器の方に行こうとしたら、緑ヶ丘駅の方から消防自動車が来たのでその行方を見ていた。そのうちに火事を見に行つた主人の話で緑交荘が火事だということがわかつた。」旨供述している。(但し、右自動車に乗つていた者が本件火災を発見して消防署に連絡したのではないこと及び同人等が本件火災の発生に無関係であつたことは右供述並びに証人小柳京子の当公判廷における供述及び司法警察員に対する供述調書によつて認められる。)
ところで、一件記録に徴すると、右下田、高瀬両名が取調を受けた昭和三八年一二月五日以前に捜査官において特に右の点に関する事実の有無を調べた事実は認められないし、また検察官の釈明によれば被告人が右自動車の警音器の吹鳴等の事実に関し捜査官に供述した最初の調書は、同年一一月三〇日付の司法警察員調書であることが認められ、右各事実に被告人の検察官に対する供述調書(昭和三九年一月八日付)及び証人宮代力の当公判廷における供述を総合すると、捜査官が前記下田、高瀬両名を取調べた目的は、被告人が捜査官の取調に対し、「緑交荘の便所附近に放火したとき、丁度緑ヶ丘駅の方向からライトをつけて自動車が通りかかつたが、そのときは火が出始めた程度であつたから自動車は火に気が付かないらしくそのまま通りすぎていつた。自分は火が出たので家に帰り、入口のところに立つて一、二分見ていたら先程の車が余り遠くへ行かないで一旦止まり、戻つてくるのが音でわかつたので、すぐ家に入り寝床に入つた。戻つてきた車は盛んに警笛を鳴らしていた。火に気が付いたらしいと思つた。それから自分も家内を起こし緑交荘に行つたらもう火は消えていた。」旨供述したため、果して被告人の供述するとおり、その頃附近を自動車が通り警音器を鳴らした事実があるかどうか、その裏付をとるためであつたことが明らかである。
検察事務官作成の「緑交荘放火現場附近の状況について報告」と題する書面及び司法警察員作成の実況見分調書(昭和三八年一〇月二四日付)によると、もし被告人が供述するような状況下で自動車が通つたとすると、右自動車の通つた道は緑交荘と奥沢中学校の間を南北に走る道路以外にはないと認められるところ(両建物はほぼ右道路を挾んで対立する地点に位置する)、前記下田方は緑交荘から二軒おいた北側で、右道路から一軒奥に入つた地点に位置し、高瀬方は奥沢中学校の北方で右道路に面していることが認められるから、警音器の音が聞こえた方向として下田信子の指摘する「筋向い」という地点及び高瀬千賀子の指摘する「前の道路」はまさに右道路に該当することが明らかである。そうとすれば、被告人の前記供述中、少なくとも本件火災発生当時、右道路を奥沢中学校方面より緑ヶ丘駅方面に向つて自動車が通つたこと及び同自動車が警音器を盛んに吹鳴していたことについては十分裏付証拠があり、且つ、この事実は、前記のとおり、被告人の供述によつてはじめて捜査官が知り得た事実とすれば、この点に関する被告人の検察官に対する供述内容は十分に信用することができ、且つ、真実と認めることができる。そして被告人の同供述中自動車に関係する部分には、右奥沢中学校方面より緑ヶ丘駅方面に向つた車とその反対に走つた車とあるが、同供述によれば、両車は同一の車で、この車に関する経験はもち論厳密には同一時間のものとはいえないが、同一の機会における一体としての経験と認めるのほかはないと考える。従つて、被告人の右供述中自動車に関係する部分はいずれも被告人が当時みずから経験した事実を語つたものと断ずるのが相当である。そうすると、被告人は下田信子らが自動車の警音器の吹鳴を聞く前に右道路を通つた自動車を目撃しているのであるから、本件火災発生当時しかもその初期頃家から外に出ていた事実があるといわなければならない。しかし、被告人がこの時期に外に出ていることにつき相当の理由のあつたことは、一件証拠を精査しても、これを発見することはできない。
(ハ) 前掲金子貞子の当公判廷における供述並びに司法警察員に対する供述調書(昭和三八年一二月三日付)、証人後藤善四郎、同奥原弘夫の当公判廷における各供述を総合すると、被告人方と緑交荘及びその附近に住む創価学会員との間には昭和三八年四月以降判示の如き経緯があり、その推移からみても、両者の間には感情的に必ずしも円満な交流がなされていたものとはいえないことが認められる。
(3) 右(2)の(イ)、(ロ)、(ハ)で認定した事実を総合すれば、右緑交荘の火災発生当時における被告人の行動には疑いを抱くに足る相当な理由があるというべきであり、しかもこの行動については他に合理的にこの疑いを解消しうべき証拠はなく、被告人の検察官に対する供述にはその裏付があると認めるのが相当で、その真実性はこれにより担保されているものと認めることができる。
(四) 石井八重子方に対する住居侵入について
関係証拠を総合すると、昭和三八年五月一二日午後一一時頃、被告人が石井八重子方八畳の間に無断立ち入つたことは明らかである。而して被告人がかつて府中刑務所に服役中、石井八重子の亡夫石井漠が刑務所慰問に来たことから同人に対し被告人が恩義を感じ、出所後、右石井漠が死亡した際はその葬式の手伝いを買つて出たり、また被告人の長女が石井方で舞踊を習つていた関係から、被告人が時折石井方に出入りしていた事実のあつたことは証拠上認められるが、それ以上の関係は認められず、平素の交際状況、本件行為の行なわれた時間的、場所的状況並びにその立ち入りの目的(被告人は眠くなつたら寝かせて貰おうと思つて入つたとか、仏壇を拝みに入つた等と供述している)からみても、無断立ち入ることにつき、住居権者である石井八重子の同意が当然推定されうる状況にあつたとは到底認めることはできない。
(被告人の判示行為時における精神状態)
前掲小木鑑定は、「被告人は精神病質者であるが、狭義の精神病の特徴は見出されず、本件各行為当時はいずれも平常と異なる精神状態ではなかつたと考えるのが妥当である。」としており、これに本件に顕われた各証拠を総合検討しても、本件各行為当時被告人はその事理弁識の能力に特に障碍があつたものとは認められない。
(累犯となる前科)
被告人は、いずれも窃盗罪により、
(一) 昭和三二年一一月一九日、東京簡易裁判所において懲役一年に(昭和三三年一一月一八日刑終了)、
(二) 昭和三四年九月一四日、新潟簡易裁判所において懲役一年に(未決六〇日算入、昭和三五年七月一五日刑終了)、
(三) 昭和三五年一一月一四日、中野簡易裁判所において懲役一〇月に(未決二〇日算入、昭和三六年八月二四日刑終了)
それぞれ処せられ、いずれも右のとおり各刑の執行を受け終つたもので、右は被告人に係る前科調書によつてこれを認める。
(法令の適用)
一、法律に照らすと、被告人の判示第一の所為は刑法第一〇九条第一項に、判示第二の所為は同法第一〇八条に、判示第三の所為は同法第一三〇条、罰金等臨時措置法第二条、第三条に該当するので、判示第二及び第三の罪については所定刑中前者につき有期懲役刑を、後者につき懲役刑を選択するところ、被告人には前示前科があるので、刑法第五六条、第五九条、第五七条により判示各罪の刑にそれぞれ累犯加重をなし(判示第一、第二の各罪については同法第一四条の制限内で)、以上は同法第四五条前段の併合罪であるから、同法第四七条本文、第一〇条により最も重い判示第二の罪の刑に同法第一四条の制限に従い法定の加重をした刑期範囲内で被告人を処断することとなる。ところで、判示第一第二の各放火は、幸い、いずれも早期に発見消火されたため被害も比較的軽微に止まつたとはいえ、附近は人家が密集し、公共の危険は極めて大きく、就中緑交荘には四二名に上る多数の者が居住しており、これら多数の者の生命、財産等の安全を全く顧慮することなく犯行に及んだ被告人の責任は特に重大で近隣の住民に与えた影響も軽々に看過できないところである。被告人が、過去一一回の前科を重ねながら反省することなく、再び安易に本件各犯行に及んでいることは被告人の反社会性の極めて強いことを示すものといわなければならない。しかし、他方被告人は家に妻及び二人の子供(長男一七才、長女一四才)をもち、年令既に四八才に達し、漸く家族の愛情に目覚め、今後被告人が真摯な努力を傾けるならば、家族の協力によつて真面目に更生できる見込みもあると認められる。これら諸事情のほか本件に顕われた諸般の情状並びに被告人は精神病質者であつて受刑はその矯正の唯一の手段でないこと等を考慮し、同法第六六条、第七一条、第六八条第三号に則り酌量減軽した刑期範囲内で被告人を懲役四年に処する。そして同法二一条を適用して未決勾留日数中四〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項但書を適用して被告人に負担させない。
二、本件公訴事実中、吉良房江方に対する住居侵入、窃盗未遂、放火未遂の事実については、前示のとおり犯罪の証明がないから、同法第三三六条に則り、無罪の言渡をする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 八島三郎 新谷一信 山本博文)
<参考> 昭和三九年一二月七日付決定
決 定
住居侵入、窃盗未遂、放火、同未遂 金子省三
右頭書被告事件について、次のとおり決定する。
主文
一、検察官が昭和三九年二月一日の公判で申請した証拠のうち
(イ) 被告人の検察官に対する供述調書(証拠番号4、9)はこれを採用する。
(ロ) 被告人の司法警察員に対する供述調書(証拠番号1、2、3、5、6、7、8)はこれを却下する。
二、検察官が昭和三八年一二月一八日の公判で申請し同日採用決定の上取調べた証拠のうち放火未遂被疑事件についての被告人の司法警察員に対する供述調書(証拠番号1、2、3)はこれを排除する。
理由
一、検察官は昭和三八年一二月一八日の公判期日において同年同月四日付起訴状第一の一、二、三の事実につき、別紙(一)記載の書証を刑事訴訟法第三二六条に基いて申請し、弁護人はこれに同意したので、裁判所はこれを採用し同日その取調を行なつた。そして検察官は昭和三九年二月一日の公判期日において同年一月二八日付起訴状の事実につき別紙(二)記載の書証を同法第三二二条に基いて申請した。
弁護人は昭和三九年二月一日の公判期日において右書証のうち被告人の司法警察員に対する供述調書は長島警部補が取調べた結果を録取した書面であるが、同調書の基礎となつた取調べには次のような無理な取調べが行なわれており、その供述は任意性を欠くものであり、また被告人の検察官に対する供述調書は右長島警部補の無理な取調べの影響が未だ脱却しない間に行なわれた取調べに基く供述を基礎としているから、これまた任意性を欠くものであると主張する。
すなわち
(イ) 被告人は戦時中左腰部及び左膝下部に被弾したことに因り身体に故障が生じており、木製椅子などに長時間座すれば耐え難い疼痛を覚えるものであるところ、長島警部補の取調は勾留当初から長時間に亘つて行なわれ、しかも被告人は木製の丸椅子に座せられたため、前記故障の部位に激しい疼痛を覚えた。それで被告人が姿勢を崩すと長島警部補にたしなめられたので、爾来きちんとした姿勢を保たねばならないことになり、その取調中の苦痛はひどいものであつた。その上被告人は長島警部補の再三の質問に対して黙つていると、同警部補は「金子、お前否認したら出られんぞ。否認しなかつたらこんなの軽いんだ。家族のことは心配いらない。警察でちやんと心配して目黒の民生委員にも話がしてある。このとおりだ」といつて名刺を示されたこともあつた。右のような取調をうけていたため、被告人は長島警部補に迎合して事実に反した供述をしてしまつたのである。そして長島警部補は被告人の自白採取の過程が右のとおりであつたため昭和三八年一二月二三日警視庁より東京拘置所に移監の前日被告人のために送別会を開いてくれたのみならず、被告人が金銭に不自由しては困るだろうから後で金銭を送つてやる旨約束し、同三九年一月一六日には被告人の右約束に基いた要求にこたえ金一、〇〇〇円送金している。
(ロ) 検察官の申請に係る被告人の司法警察員に対する供述調書は右の如き状態で取調べの結果採取されたものであつてその供述には任意性はない。
二、よつて按ずるに、
(イ) 被告人が昭和三八年一一月一三日石井八重子方に不法侵入の容疑で逮捕され爾来所定の手続を経て同年同月一五日警視庁碑文谷署に勾留され、同月一八日同署より警視庁に、翌一二月二四日警視庁より東京拘置所に各移監されたこと、被告人がその勾留中右石井八重子方に不法侵入の容疑のほかに放火容疑についても取調をうけ、前者については碑文谷署の太田警部補、後者については警視庁の長島警部補の取調をうけたことは一件記録上明らかである。
(ロ) 鑑定人石田正統(東京大学医学部講師)の鑑定書及び被告人の公判廷における供述によると、被告人は昭和二〇年頃拳銃弾を左腰部及び左膝下部にうけ、左下腿部の脛骨と胖骨との中間には現在なおゴマ粒大以下の十数ヶの金属片が径五糎の範囲に散在していることが認められる。そして右下腿部の残留弾片が神経及び筋に影響があるか否かの点について、鑑定人石田正統はその鑑定書において、「右残留弾片は現在臨床的に症状はないが、その残留位置よりみて神経及び筋への影響はあるものと認める。被告人を木製の丸椅子に腰をかけさせた場合冬期室温五度前後の室では二時間半、その以外の場合には三時間を超えるときは、被告人は座することにかなりの苦痛を感じるとみるのが医学常識上相当である」旨述べており、鑑定人小木貞孝、(東京大学医学部助手)はその鑑定書において「被告人の左下腿の貫通銃創痕は神統系統の障害を惹起していない。従つて被告人が所与の丸椅子に坐つた場合にうける苦痛は正常人のうけるそれと同程度と考える。しかし、被告人がその苦痛を過大に訴えるであろうことは十分に推察出来ることである」としながら、被告人が木製の丸椅子に長時間座した場合にうけた苦痛として主張する点について「神経学的障害について述べると上肢躯幹に運動障害はない。腱下肢に関しては股関節、膝関節、足関節に運動の制限なく、筋力にも粗大な左右差はない。歩行の異常については精神的所見の項で詳述した如くであり、神経学的障害によるものではないと考える。従つて結論としては知覚神経領域に神経学的障害は認めない。しかしこの様に神経学的に説明され得ない知覚障害はヒステリーの場合にしばしば認められることがあり、被告人の場合はその精神状態を考慮するとヒステリー性の知覚異常と考えるのが妥当であろう。」と述べている。この両鑑定によると、神経的障害によるか精神的の異常によるかは別として、被告人を木製の丸椅子に長時間座させた場合同人が少なくとも主観的に相当の苦痛を感じる可能性のあることは否定できないと考える(但し被告人の場合小木鑑定人が鑑定書で指摘しているとおり身体的苦痛を過大に訴え演戯的色彩の強い傾向のあることは、当裁判所も法廷における被告人の諸行動を観察したところによれば同意見であつて、このことはこれに関連する認定をする場合常に留意を要することであり、後記の認定においても十分斟酌している)。
(ハ) 一件記録によると、本件で問題となつている調書のうち、司法警察員長島警部補作成のものは昭和三八年一一月二三日、同年同月二四日、同年同月二九日、同年同月三〇日、同年一二月二日、同年同月五日、同年同月六日、同年同月九日、検察官作成のものは同三八年一一月二一日、同年同月二八日、同年同月二九日、同年一二月二日、同三九年一月八日に作成されたものであることが認められる。そしてこれらの調書が作成された日に被告人が取調官の面前にいたと認められる時間並びに警視庁に移監後最初の自白をするまでの間における同上の時間で長島警部補関係のものは、警視庁より取寄せた留置人出入簿によると次のとおりである。
(1) 昭和三八年一一月一八日
午後一時三〇分より同五時四五分(四時間一五分)
(2) 同年同月一九日
午前九時四〇分より同〇時四〇分(三時間)
午後一時四五分より同四時五〇分(三時間五分)
午後六時より同七時五〇分(一時間五〇分)
(3) 同年同月二〇日
午前九時より午後〇時一五分(三時間一五分)
午後二時より同四時〇五分(二時間五分)
(4) 同年同月二一日
午前九時二〇分より午後〇時〇五分(二時間四五分)
午後一時三〇分より同四時一〇分(二時間四〇分)
(5) 同年同月二二日
午前九時四〇分より午後〇時三〇分(二時間五〇分)
午後二時〇五分より同四時一〇分(二時間〇五分)
(接見及び食事時間を含む)
(6) 同年同月二三日
午前一〇時より午後〇時五五分(二時間五五分)
午後一時三五分より同三時一五分(一時間四〇分)
(7) 同年同月二四日
午前九時三五分より午後二時一〇分(四時間三五分)
(8) 同年同月二九日
午前九時三〇分より午後四時五〇分(七時間二〇分)
(9) 同年同月三〇日
午前一〇時より午後〇時二五分(二時間二五分)
(10) 同年一二月二日
午前一〇時より午後五時五五分(七時間五五分)
(11) 同年同月五日
午前一〇時一〇分より午後四時四〇分(六時間三〇分)
(12) 同年同月六日
午後〇時〇五分より同四時〇五分(四時間)
(13) 同年同月九日
午前一〇時二〇分より午後二時(三時間四〇分)
そして被告人が前記日時に長島警部補より取調べをうけた際座していた椅子が領置してある木製の丸椅子であることは被告人の当公廷における供述に徴しこれを認めることができる。
(ニ) 被告人は長島警部補より取調べをうけた際途中で左下腿部に痛みを感じて姿勢を崩すと同警部補よりたしなめられて姿勢を崩すことができなかつた旨主張する(第三回公判調書一五三、二四五、第四回公判調書一八七問答参照)に対し、長島警部補はこれを否定し却て自由な姿勢をとらせた旨主張する(第四回公判調書一五四、一九一問答参照)。そして被告人は右取調中長島警部補より右一の(イ)で摘示したように家族の面倒をみてくれるなど利益の誘導をうけた旨主張する(第三回公判調書一四〇、二二一問答参照)に対し、長島警部補はこれを否定している(第四回公判調書二五、四九、八六問答参照)。
被告人には性格としてさきに認定したようにことを過大に訴える傾向のあることは否定できないが、前記(ロ)、(ハ)で認定の事実並びに長島警部補には後記(ホ)で認定のとおり取調官として異常の行動のある事実などを併せ考えると、長島警部補の証言を全面的に措信することは困難で、被告人の供述を単なる言い掛りとしてこれを否定し去ることはできない。
(ホ) 一件記録によると、長島警部補が昭和三九年一月一六日被告人に対して金一、〇〇〇円を現金書留で送付したことは明白である。この送金がなされた経緯について、被告人は前記一の(イ)で摘示したように被告人が昭和三八年一二月二三日警視庁より東京拘置所に移監された前日長島警部補との間に送金をうける約束をした旨主張するに対し、長島警部補は「被告人が正月を迎え、同房の者の暮しをみて被告人の困つている窮状を訴えてきたので同情のあまり送金したに過ぎない。このような次第でこの送金と被告人に対する取調ベー延いてはその自白―とは何らの関係もない」旨主張している。
ところで、被告人が長島警部補にあてた書信三通(とくに最初の文面に注目の要があろう)並びに被告人の当公判廷での供述等を併せ考えると、被告人の供述は全部事実とはいえないとしても大綱的には事実に合致しているものと認める。
およそ犯罪の捜査にあたる者が被疑者に対し金銭を贈与するが如きことはまことに異例のことである。そしてこの金銭が贈与された経緯が前段認定のとおりであるとすれば、被告人に対する取調べが終始相当であつたとは到底認められない。けだし若し相当だとすれば被告人に対し筋のとおらぬ金銭などを贈与する理由はないからである。これらの事実に思いをいたすと、本件で問題となつている長島警部補の面前調書の基礎となつている取調についての被告人の主張には全く誇張などがないとはいいきれないがこれを全然虚偽の主張として排斥することのできないことはさきに認めたとおりである。
(ヘ) そうとすれば、長島警部補作成の被告人の供述調書の基礎となつた被告人の供述が果して任意になされたかについては疑があるといわねばならない。
もつとも、検察官は右調書の任意性を立証するものとして被告人の供述を録音したテープを提出しているが、このテープは否認から自供へ移る過程を録音したものではなく、これによつては右結論を覆すまでの心証は惹起しない。
(ト) 被告人の検察官に対する供述調書については、被告人の当公判廷における供述を参酌しても任意性を疑うまでの事実は認められない。なお、司法警察員の取調べについて前記(ニ)及び(ホ)で認定した事実は司法警察員の取調に附帯したものであつて、検察官の取調にはこのような事実は認められないばかりか、一件証拠を検討しても、司法警察員の取調べをめぐつて起つた右事実が弁護人の主張のように検察官の面前調書の任意性を否定するまでの影響を及ぼしたと認めることはできない。
三、よつて、検察官より証拠申請のあつた証拠のうち被告人の(イ)司法警察員長島警部補に対する供述調書はすべてこれを却下し、(ロ)検察官に対する供述調書はすべてこれを採用し、検察官の証拠申請により既に採用した証拠のうち被告人の司法警察員長島警部補に対する供述調書はこれを排除するのが相当であると認め、主文のとおり決定する。
(別紙(一)(二)略)